蝉の声が降り注ぐ、夏の午後。俺は、誰もいないはずの美術準備室で、石膏デッサンの続きを描いていた。ひんやりとした空気と、絵の具の匂い。ここだけが、俺の唯一の聖域だった。
「…やっぱり、ここにいたんだ」
不意に、背後から声がした。心臓が跳ねる。この声は、間違いない。俺が密かに想いを寄せる、美術部の先輩、有賀みなほ先輩だ。
「せ、先輩…!どうしてここに…」
振り返ると、白いワンピース姿の先輩が、少し困ったように微笑んでいた。夕陽が彼女の長い髪を金色に染めて、まるで一枚の絵画のようだ。
「コンクール、近いのに集中できてないみたいだから。ちょっと気になって」
先輩はそう言って、俺の隣に腰を下ろした。近すぎる距離に、俺の心臓は警鐘を鳴らし続ける。先輩の甘い香りが、俺の理性を麻痺させていく。
「この絵、すごくいいね。でも…何かが足りない気がする」
先輩は、俺の描きかけのキャンバスをじっと見つめて言った。
「足りないもの…ですか?」
「うん。もっと…こう、感情が爆発するような、衝動的な何かが」
そう言うと、先輩は俺の筆をそっと取り、キャンバスに深紅の絵の具を置いた。その一点だけで、絵の印象ががらりと変わる。まるで、絵の中に命が吹き込まれたようだ。
「すごい…」
俺が感嘆の声を漏らすと、先輩は「でしょ?」と悪戯っぽく笑った。そして、その視線が、ふと俺の唇に注がれる。
時間が、止まった。
先輩の瞳が、潤んでいる。何かを言いたげに、少しだけ唇が開いている。蝉の声も、遠くで聞こえる吹奏楽部の音も、もう何も聞こえない。
「ねえ…」
先輩が、囁くような声で俺の名前を呼んだ。
「…キス、したことある?」
「え…」
その質問の意味を理解する前に、先輩の顔が目の前にあった。そして、柔らかい感触が、俺の唇を塞いだ。
頭が真っ白になる。これが、キス…?
驚きで固まる俺を無視して、先輩の唇が優しく俺の唇をこじ開ける。そして、信じられないほど柔らかいものが、俺の口の中に侵入してきた。
「ん…っ!」
それが先輩の舌だと気づいた時、俺の思考は完全にショートした。先輩の舌が、俺の舌にそっと触れ、そしてゆっくりと絡みついてくる。角度を変え、深さを変え、まるで俺の全てを確かめるように、優しく、そしてどこまでも丁寧に。
甘い。脳が溶けてしまいそうだ。これが、有賀みなほ先輩のベロキス…。
息継ぎも忘れて、俺はただ、先輩が与えてくれる感覚に溺れていた。先輩の細い指が、俺の髪を優しく梳く。その仕草一つで、体の力が抜けていく。もう、どうなってもいい。このまま、先輩に溶かされてしまいたい。
どれくらいの時間が経ったのだろう。名残惜しそうに唇が離れると、二人の間には、透明な糸が引いていた。
先輩の顔は、夕陽よりも赤く染まっていた。潤んだ瞳で俺をじっと見つめ、そして、はにかむように笑った。
「…これが、足りなかったもの」
そう言って微笑んだ先輩の顔を、俺は一生、忘れることができないだろう。
夏の日の美術準備室。俺と先輩だけの、秘密のレッスン。この日を境に、俺の世界は色鮮やかに変わってしまったのだ。